自画自賛
変な話、私は自分がゴミ以下の存在でしかないと思っています。
この世に居たら迷惑をかけるだけ。
居ない方が喜ぶ人の方が多い。
変な話、私が居なければ幸せになれない人が居ると思っています。
子供たちの心を育んでやること。
喋れない犬の代弁者になってやること。
たまに自分が二重人格なんじゃないかって思うほど、その時のメンタルによって両極端な自分を感じて生きています。
そのほとんどが、前者の有害(無益)な人間としての自分を、思ってもどうにもならないクズっぷりを嘆くことで生きています。
先日、スタッフがインスタグラムで写真ではなく写真と動画を合わせたものを作って投稿してくれました。
スタンダードプードルのトリミングです。
細かい所を見ては切り足したいなぁなどはあるのですが、その動画全体を見てすごく良いものを作ってくれたなと、何度も見返しては色々な感情が生まれています。
自分の9割の嫌な部分を知っていても、残り1割を綺麗にとらえてくれるのであれば、その1割を有難く受け取らせてもらおう。
たまには自分で自分を徹底的に褒めようと、記事にしています。
そんなもん腹の中で収めとけって事ですけど、やっぱり人間なので、頑張ったことは知ってもらいたいし褒められたいんです。
長くなるけど分けずに一つの記事にします。
自分はとにかく褒められるという事と無縁の幼少期を過ごしてきました。
お手伝いをすれば「当然だ」
テストで90点を取れば「なぜ10点を落としたのだ」
何もかも常に否定されてきた。
目つきが悪いので、普通にしていても「おめぇ何ガン飛ばしてんだよ」と絡まれる始末。
中学3年、今と変わらず頑固な性格で、「絶対に自分は間違ってない」と思い込んだら最後。家庭科の授業は全て欠席しました。
1時間目はコンビニで立ち読み。
2時間目は屋上の手前の踊り場で美術の彫り物を彫っていく。
3時間目からみんなと合流。
全課程を欠席した私の通知表には、上から2番目の「4」がついていました。
きっと私が高専の受験を控えていたので、体裁でしょう。
「大人」って生き物が嫌いで、「なんでも知っている」「大人のいう事は正しい」それだけを見せつけられてきた。
高校生になってアルバイトを始めた。
「自分は給料をもらっているんだ。暇な時間なんてない」
時間が空けば掃除から準備や補充、今を否定しもっと良くなるにはどうしたらいいか。
大人にとっては邪魔なでしゃばりのガキだったはず。
でも、自分はそれで褒められた。
「お前はスーパーアルバイトだからな」
「辞めないで」
そう言ってもらえた。
決まりきったことをしないといけない人生ではなく、自ら考え行動することを褒められた。
それが、自分が「仕事をする」ということが好きになった時だった。
自分の人生に大きな影響を与えてくれた人間が数人いる。
何人もいるけど、本当にテッペンに書きたい数人。
その中の一人が「スーパーアルバイト」と言ってくれたタイヤ屋の店長。
今でもたまに連絡を取るし、数年前久しぶりに会ってご飯を食べた。
「今はお互い違う仕事をしてるけど、あの時のあの店は全国最強だったよな」
「あの時のあの店と同じ気持ちで働ける職場をお互い作っていこうな」
本当にこの人がいなかったら今の自分は無いんだろうなって思える。
犬屋の下積みになって、常にお金が無くても、この人のことを思い出せば頑張れた。
専門学校にも行っていないけど、やりたいと思ったからには突撃するの精神で、調べたお店に電話しまくって、あるお店で「無給でよければ」と仕事に携わらせてもらえた。
休日も喜んで出勤した。ホテルの世話やお返し。時間外だって。
ある程度勉強したら自分で一頭仕上げたくて友達の犬を借りて定休日に練習した。
いつもの自分なら2頭やれるだろう。シャンプーブローは〇時間。残りをカットにしても、カットは先生のカットを頭の中のビデオが再生できるほど見続けたから大丈夫。そう思って、結局一頭切り終えても居ないのに8時間が過ぎていた。
悔しくて悔しくて泣きじゃくって、そこで様子を見に来た先生が「とりあえずご飯食べな」って、作ってきたおにぎりを口に詰め込んでくれた。
たまの休みはサロン巡りをしてガラス張りの店舗に張り付いてみていた。
そのお店を辞めて次の店に行くまでの間、東京、埼玉、茨城、栃木となん十店舗も歩いて回った。
お金はないからバス移動できずに真夏でも歩いた。帰りの電車で熱中症のように気を失って倒れても誰も助けてくれず、意識が戻った駅で降りてベンチで寝たこともあった。
「同業者に見せるわけないだろ帰れ」とも言われた
一日見ていていいよ、と言って椅子を用意してくれたお店もあった。
ガラス張りの向こうで、何時間も見ている自分を気持ちわるがってヒソヒソ笑ってこっちをチラ見するトリマーもいた。
そんなのどうでも良かった。
自分には1秒でも多くの犬を見ている時間が必要だった。
通り掛けに珍しい犬が居れば突然声をかけた。
「見ていいですか!触ってい良いですか!写真撮っていいですか!」
「トリマーの勉強中なんです!」
多分不審者でしかなかったけど、だいたいの人はOKをくれた。
アルバイトもしていた。休憩中にはハサミの練習をしていた。
店から拝借してきた犬の毛を取り出して、ハサミを使いながら手首の使い方の練習もした。
訓練競技会も行った。
寝坊しないために現地に前乗りして、ホテルを取るなんてお金も無いので車中泊で凍死しそうなこともあった。
良さそうな月刊誌も定期購読して読み漁った。
同僚の当時の教科書を借りて勉強もした。
従妹の結婚式当日、「妊娠の可能性ゼロ」とあのヤブ医者の言葉を真に受けていたはずなのに、お銀が産気づいた。「これから犬屋としてやっていく自分が経験できる少ない事例」だとして参加をドタキャンしてお銀の出産を見た。
もちろん大バッシングだが、どうでも良かった。犬しか頭に無かった。
友達と旅行に行っても「俺ペットショップ見て来るから先に行ってて」といって単独行動した。
通り過ぎる時に見た犬のカットを頭でシャドーカット(笑)していたので社内では無言ばかりだった。
この間、教えてくれる人なんて全くいなかった。
それでも、自分は働く場所があるという環境が嬉しくて勉強は自分でした。
とにかく普通の20歳が青春をしている間、ずっと犬づくしで生きてきた。
この店を始めてからも思う。
なんでこの子たちは学びたいと思わないんだろう。
知らないことが恥ずかしくないのかな。出来るようになればいい事だらけなのに、なんで暇な時間を遊んでいるんだろう。
私は犬一頭グルーミングするとぐったりと疲れる。
ブラシをしていても洗っていても乾かしていても切っていても、「右手の確かな技術で怪我をさせない」「左手は優しさがあるか。犬に無理な体勢を取らせていないか」「カット中だが、入り口に気を配っておかないと突然の来訪で犬を怪我させるかもしれない」「今こうしている間にスタッフは見て学んでいるか。どこを見ているか」「電話が鳴った時にどうするか、無視するか犬をケージに入れるか」「この子は今日はどんな精神状態だろうか」「いつもと同じじゃない、変化に気づけ」と、犬とそれに係る場所への神経の張り巡らし方が、一頭でも私をぐったりさせるには十分なものだ。
スタッフから「暇なんですけど何かやることありますか」と良く言われてきた。
暇があるってどうしたらそうなるのか教えて欲しい。
17年やっていても、まだまだ皮膚科学についても未熟だし栄養学も未熟だし何もかも未熟で悔しくて恥ずかしくて、それでも分かっていることはしっかり堂々と、分からないことは正直に。そうやって気を保つことでいるのに、なぜ何もかも始まったばかりのこの子たちが暇なんだろうかと不思議で仕方なかった。
セミナー行ってきな。
そう言っても「電車の乗り方がわかりません」「知らない人が居て怖い」
そんなの私も一緒だ。でも、それよりも学ばないと恥ずかしいという気持ちが強いから、電車は駅員に乗り換えを聞くし、知らない人と関わるしかない場面では冷や汗と脇汗を垂れ流しながらも会場に居続けるんだ。
今居るスタッフは学ぶ意欲も高く、むしろ私より知識のある子もいる。
そして早くも「上手く切れない」と壁にぶつかってもいる。
何より、「教えて」と来る。
私はまだまだ未熟ではあるが、少なくとも2,3年の経験者には絶対に追いつかれない領域にいるし、恥も何もかも捨てて学ぶことに生きてきた。
それに、今なお自分の未熟さにいつも恥ずかしい思いをしてもっと勉強しなくてはと思っている。
今やっている正解が5秒後に不正解になることもあるかもしれない。
だから常にインプットをし続けなければならない。
耳毛なんてまさにそうだ。
50年以上も前に適当に「抜く」って言った人の言葉を真に受けたまま「抜く」を正解だと思って疑わない人はいまだに抜く。
でも、常に「正解と思っていることは実は間違いなのでは」と思えば「切る」という正解にたどり着く。
(もちろん、抜く選択が正しい場面もある)
この店より学ぶ意識の強い店はこの辺にありますか?
この店より失敗を隠さず、言い訳せず謝れる店はありますか?
この店より次世代を考えて踏み台になろうとしている店はありますか?
この店より犬のことを考えたプログラムを組める店はありますか?
全てにおいて、未熟と自信の両立を意識できているこの店。
私は自信を持って古河最高の店だと言います。
これが、素の自分になった時に読み返したら鬱になるのはわかるんですが、とにかく今回はお粗末ながらも自信を持っているところを徹底的に強調しようという意図で書いていますので、遠慮なく自分とこの店を褒め散らかしたいと思います。
このお店と、その発展に協力してくれる全ての方に感謝いたします。